ピラティスとは、ピラティス創始者の、ジョセフ・フーベルトス・ピラティス(Joseph Hubertus Pilates)の名前から取られたメソッドの名前です。ジョセフ自身は、「Contrology」(コントロロジー、コントロール学)と名付けていたようですが、一般的にはピラティスと呼ばれています。
1883年、第一次世界大戦勃発前のドイツで、ピラティス氏は、9人兄弟の2番目として生まれました。幼少期は、喘息やリウマチ、くる病など様々な病気で苦しみます。くる病とは、骨の成長に必要なビタミンDやカルシウム、リン不足が主な原因で起こる病気で、近年の日本では栄養不足の子どもがいなくなり、少なくなりましたが、当時のドイツは、日本と同じく、まだまだ、栄養の状態を万全にして子供を育てられる社会環境ではありませんでした。しかし、その病を克服するために、ピラティス氏は、体操、ボディビルディング、スキー、ダイビングなど様々な訓練を行い、中学生の頃には、解剖図のモデルになったとも言われています。彼がそこまで頑張れたのは、父が体操選手であり指導者、母が自然療法士であったという両親の影響の下、運動や健康に興味を持ち、東洋西洋の手法の区別なく体を訓練するということを学び、身体と心の理想的状態を追及する少年期を送ることになったからでもありました。
第一次世界大戦が勃発し、ピラティス氏はイギリスのランカスター収容所に他のドイツ人と一緒に抑留されることになります。そこで、彼は仲間のドイツ人にレスリングと防衛のための彼のメソッドを教え、寝たきりの患者のために、リハビリのための器具を作りました。これが、ピラティスの始まりです。その後、マン島に移動した後は、看護師として働きました。
ドイツに帰国したピラティスは、様々な訓練法の提供をしていましたが、時はナチスドイツが台頭してきた頃でした。ドイツ政府からの軍隊の訓練依頼などもあったようですが、ドイツの政治的流れが合わず、アメリカに移民として渡る決意をします。その時に出会ったのが看護師のクララで、すぐに結婚することになります。そして、アメリカで二人は小さなジムを買い取り、メソッドの実行を行います。たちまち、ピラティスがケガを回復させる腕前が高いと噂になり、著名人やスポーツ選手も顧客になりました。
第二次大戦も終結し、アメリカでは医療の中でリハビリテーション分野の確立が徐々になされてきました。その後もピラティスの弟子によりさらなる広がりを見せ、1990年には日本でも初のピラティス・エクイップメントを導入した専門スタジオが開設されました。2000年頃には多くのスタジオやトレーニングプログラムとして、また、セレブの支持により、ピラティスは世界中に広がっていました。そしていまや日本の中でも大きな広がりを見せ、著名人だけでなく、スポーツ選手のトレーニングとしても取り入れられるようになりました。
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ヨギフィールはヨガもできるピラティス専門スタジオとしてピラティスを伝え続けています
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ピラティスは激しい動きをするわけではありませんが、しっかりと体内を整えていきます。
体幹部の筋肉に刺激を与えてに筋肉をつける、骨盤を調整して正しい姿勢をとるなどしていくことで、体の様々な不調がなくなっていきます。
ただし、ピラティスは一度受けただけでは、筋肉や骨の動かし方が良くわからないままに終わると思います。早い方ですと、数回も受けるうちに肩こりの解消などの効果を感じる方もいらっしゃいますが、10回受けて少し慣れてきて、20回受けて体の変化を感じ始め、30回受けて効果を確信していく、そんなプログラムです。
通い続けているうちに、ふと自分の体の不調が気にならなくなっていることに気づき、驚かれることでしょう。